七十代のAさんは、数年前からお辞儀をしたり重いものを持ったりした際に、右側の鼠径部が膨らむ自覚症状がありました。しかし、指で押せば元に戻るし、痛みも特になかったため「歳を考えればどこかしら体にガタがくるのは当たり前だ」と自分に言い聞かせ、特に病院へ行くこともありませんでした。何科に行けば良いのか分からず、わざわざ外科に行くほどの大事ではないと考えていたことも、受診を遅らせた要因の一つでした。ところが、ある日の夕食後、いつものように現れた膨らみが、どう頑張っても元に戻らなくなりました。それどころか、時間の経過と共にこれまで経験したことのないような激痛がお腹全体に広がり、何度も嘔吐を繰り返すようになりました。家族が慌てて救急車を呼び、運ばれた先の病院で下された診断は「鼠径ヘルニア嵌頓」でした。腸が腹壁の穴に締め付けられ、血流が途絶えて壊死しかかっている緊急事態です。そのまま消化器外科の医師によって深夜の緊急手術が行われ、一時は命も危ぶまれる状況でしたが、幸いにも腸の切除は最小限で済み、Aさんは一命を取り留めることができました。術後、執刀医から聞かされたのは「もっと早い段階で外科を受診していれば、計画的な短い入院で済んだはずだ」という厳しい現実でした。脱腸は「痛くないから大丈夫」という理屈が通用しない疾患です。Aさんのように、長年放置していたものが突然牙を剥くのがこの病気の恐ろしさです。この事例から学べる教訓は、脱腸の兆候を感じたら、緊急事態になる前に自らの足で消化器外科を訪れることの重要性です。平時の診察であれば、十分な検査と相談の上で最適な術式を選ぶことができますが、緊急手術となれば選択の余地はありません。何科に行くべきか迷っている時間は、病状を悪化させるリスクを孕んでいます。自分だけは大丈夫という根拠のない自信を捨て、身体が発する小さなサインに対して、専門医という確かな助けを求める冷静な判断こそが、健康寿命を延ばすために不可欠なのです。